このTOP画面の薔薇は、このブログにふさわしくない気がして、てっせん(クレマチス?)に変えましたが、
風の強い日で、ブレブレ写真で、お見苦しいです。。。(-_-;)
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鬱だ、鬱だと書いといて、夜中にむくっとパソコンに向いたくなった。
昼間には気持ち悪くて画面見たくないのに。軽い鬱だ。軽い、明日は治る!(??)
去年の秋に書こうと思った記事に膨らませて。
(今日のは長いよ~)
去年の秋、文楽を見る機会があった。
前から歌舞伎でも見たかった「摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)」をやっと見られた。
とても複雑なストーリーだ。こちらチェック
→☆簡単に言えば、後妻の玉手御前(実は20歳前後らしい)は義理の息子の俊徳丸に恋をして言い寄るが、
彼には許嫁もあり、断る。玉手は俊徳丸に毒酒を飲ませると、彼は
顔も崩れ、目も見えなくなるという病にかかり、家出するが後、玉手の両親宅へ身を寄せる。
玉手の実家では両親が娘を恥じて憤慨していたが、玉手があらわれ、
どうしても俊徳丸と添い遂げたいという。
そこへ俊徳丸と許嫁、逃げようとするところ追いすがってどろどろに。
父は娘を思わず刀でつく。
そこへ、玉手の「実は…」という打ち明けばなし。
家督相続争いに巻き込まれ、危うく殺されそうだった俊徳丸を救う為にわざと病にした、
自分の生血を飲ませれば、病は全快する、という。
皆は疑いを解き、玉手に感謝しつつ死を嘆き、俊徳丸の病は治る。。。玉手御前の人形は、登場の時からはっと息を呑むほど美しい。
息子といっても、夫である父より年が近いのだそうだ。
実は…のくだりはとってつけたようで、いや、事実そうだったとしても、
きっと、玉手御前は俊徳丸を本当に愛していたに違いないと、観客に暗黙の印象を与える。
ギリギリ不義の話、その匂がする部分が、このストーリーが愛される理由だと思う。
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古典芸能の中で、女の恋の激しさ、業を主題にしているものは多い。
知っているものだけでも、日高川の安珍清姫の話(道成寺の花子)、蛇になって愛する安珍を追いかけ
逃げ込んだ鐘に巻きついて焼き殺してしまった話。
(私もまさにかって同じようなことをしたのだ)
有名な八百屋お七。
(少し業とは違うけど、恋心の激しさという意味で、「妹背山婦女庭訓」のお三輪や、桜姫東文章の桜姫もちょうぶっとんでいる。
恋人を殺されて気が触れたお夏清十郎のお夏も、悲痛だ。)
今の世で、こういう激しい女性は、「痛い」と言われて白い目で見られる。
でも、古典芸能の中では、その役者の魂のこもった演技で皆圧倒される。
そして、ずっと愛されるのはなぜか。
はたして現代でも、あんな痛い女を見たいという三面記事好き心理なのか。そうは思えないのだ。
女には業あってこそ、真の女なのだろうか。
激しい女性が恋焦がれる男は、たいてい逃げている。
これは古今東西同じだ。そして、いつも結末はどちらかの悲劇だ。
こうした女の業は、かって不倫して自分の中にいやというほど見た世界なので、
自分に同じものを感じ、今も嫌悪したり気分が悪くなる。
なのに、なぜかこういう演目に惹かれてしまい、見に行くのはなぜか。
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源氏物語にさえ出てくる。激しい人。
そう、六条の御息所だ。
教養高く身分も高い、自分を抑えようとしつつ、その限界を超え、生霊となって、夕顔や葵上を殺してしまう。
その自分を恥じて、彼女は去っていく。
若い頃読んで、ほとんど忘れた源氏物語だが、六条の御息所は強烈なインパクトだ。
やはり、これも、自分の嫌な部分を見るようで否定してきた人物だ。
先日、日本で数本の指にはいる(多分)有名な新内のお師匠さんの新内を聴く機会があった。
お夏清十郎のお夏の、気が触れた姿があまりに悲痛で胸につきささったが、
その中で、創作の「夕顔」を披露された。
夕顔が生霊が現れ、はかなくなる場面だった。
その間のトークで、私と同じ年くらいの師匠さんは、
「この歳になってみれば、六条の御息所は、実に深い人物として描かれていて、好きな人物です」と
さらりとおっしゃったので、胸につかえていたものがコロンと落ちた気分だった。
目から鱗というか。
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イイ女には興味がなかった。
もう女性として生きていくのは嫌だと思った。
いい人間になりたかったし、醜い嫉妬や、激しい情念は持ちたくなく、
縁のないのどかな暮らしを望んでいこうと思ってきた。
過去の過ち以来。
実際、そのとき得た躁うつ病は完全に癒えず、今も自分を苦しめ、
その度に自分に戒めを感じる。
だけど。
2年ぶりにお会いしたその新内のお師匠さんは、芸だけでなく
こんな言葉は失礼かもしれないが、ますます女に磨きがかかった感じだった。
色気だけでなく、貫禄、そして人生の苦労も芸の精進も日頃のご苦労も、全部お顔にいい意味で出ていて、
ますます憧れる人になられていた。
自分は、長らく不倫の呪縛から抜けられなくて、
このブログを続けてきた気がする。
「夢ノカケラ」というタイトルは実は、自分の過去の傷から脱皮するためのブログだったと改めて感じた。
このコンセプトは、私の贖罪と、自分の生まれ変わりと、新しい自分の模索だったんだ。(今頃)
先日来、不倫した彼が元気なのか、声が聞きたい気持ちが高まる。
まだまだ自分は甘い。
まだまだこのブログは終われないかもしれない。
でも、最後にたどり着くべき自分の姿は、
自分の亡くならない生来背負った業をも受け入れそれを制御できる人間なのかもしれない。
そのうえで、柔和にのほほんと笑っていられるおばあちゃんになれたら最高だ。
一番に「いい人間」でありたい、もちろん。
でも、もう7年ぶりかに、「イイ女」になるのもいいかもしれないとも思った。
って、未だに、誰かにお世辞で「イイ女だね」と言われると、嫌悪感を隠せないんだけどね。
その新内のお師匠さんのように、なりたい。。
自分の業は一生背負うもので、逃げるものではないと思いたい。
業だけでなく、自分の生き方は顔にでる。
男だけだけでなく、女も40過ぎたら自分の顔に責任もてと母が言った。
若く綺麗に見えるだけでなく、自分の人生が良い人相になって顔にでるといいな。
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ずっと、不倫のことなんか忘れて、のんびりしていた。
もう自分の中で型がついたと思っていた。
不倫仲間(ネットからリアルでつながった)も、真の愛をみつけ、贖罪のブログをやめた。
彼女の中で、それは必要となくなったのだろう。
自分もそろそろそうかな、と思ってずっと留守にしていた。
でもまだ、道は途中だと感じた。
イイ女だね、と言われて、ありがとうと素直にいえるようになりたい。
何もかもひっくるめて自分は自分なんだ。
「日高川入相桜」(玉三郎)